実戦合気道・藤崎天敬師範に聞く:”演武”の意義と課題 — 華麗なる型の先に「使える」技はあるか?
「演武には、人を強く惹きつける側面があります。しかし、その魅力だけに注目するのではなく、武道としての可能性をより広く深く捉える必要があります。」
打撃や試合形式の稽古を取り入れ、既存の合気道界に独自の稽古体系を提唱する実戦合気道覇天会。その代表、藤崎天敬師範は、長年、武道の探求と後進の指導にあたってきた。今回、藤崎師範と共に考察するテーマは「演武の功罪」。観る者を魅了する演武の美しさと、実用性との関係性とは? そして、現代の演武に対する見方と今後の展望について、多角的な視点から合気道と演武のあり方を探る。
第一幕:演武の魅力と潜在的な課題
まず、藤崎師範が一流と評される演武にどのような印象を持っているか尋ねた。
藤崎天敬師範: 「真に優れた演武には、強い魅力があります。長年の修練によって培われた身体操作や、そこから感じられる武道家としての精神性は、深い感銘を与えるものです。他流派であっても、一流の師範方の演武からは、常に学びを得ています。しかし、その素晴らしさの一方で、演武が持つ『見せる』側面が、時に武道の本質を見えにくくする危うさも内包していると感じます。」
その言葉には、称賛と共に懸念も示唆される。かつて自身も演武に取り組んだ経験から、その限界や課題も認識しているという。
藤崎天敬師範: 「私自身が演武を行うとしても、それは基本的な技術理解を示す程度に留まります。私の稽古の中心は組手に置いていますから。演武が武道の普及に貢献する側面は認識していますが、現実には『演』じる側面が強調され、実用性という観点から離れた、パフォーマンスとしての性格が強くなっているケースも見受けられます。率直に言って、演武の中には、見せるための演出が多くを占め、武道としての実質的な内容に疑問を感じるものもあります。」
第二幕:「武」と「演」のバランス – 実戦的視点からの警鐘
実戦合気道を掲げる師範にとって、「演」と「武」の適切なバランスは重要な点だ。
藤崎天敬師範: 「武道の根幹は、あくまで相手を制するための『武』の技術です。演武が華やかさや流麗さのみを追求するあまり、その本質が見失われることを懸念しています。美しさも武道の一要素ですが、それが実用性という本来の目的よりも優先されてしまうと、目的と手段が入れ替わってしまいます。特に、実戦的な稽古を重視する立場から見ると、演武の美しさだけを追い求める姿勢が、実戦での有効性に関する誤解を招く危険性を含んでいると感じます。」
「演武で示される動きが、そのまま実戦で有効であるとは限らない」――師範はそう述べ、両者の本質的な違いを強調する。そして、議論は合気道の稽古体系における「約束組手」と「自由組手」の関係へと移る。
藤崎天敬師範: 「演武は、基本的に決められた手順、予定された状況の中で行われます。いつ、どこから、どのように攻撃が来るか分からない実戦とは、本質的に異なります。合気道が実戦的な状況でどの程度有効なのか、その実際を知るには、組手や試合形式の稽古といった、より実戦に近い状況での検証が必要です。そこには、演武のような洗練された美しさとは異なる、実用本位の技術や、予測不能な攻防が存在します。空手や柔道では、型(演武に相当)と組手(実戦稽古)は明確に区別され、それぞれの価値が認識されています。しかし、一部の合気道においては、演武の巧みさが、そのまま実戦能力の高さを示すかのように捉えられる傾向が見られます。これは課題のある状況と言えるでしょう。」
第三幕:約束組手の意義と限界、自由組手の必要性
ここで師範は、合気道の稽古における「約束組手(型稽古)」と「自由組手」の役割の違い、そして実戦への繋がりについて具体的に解説する。
藤崎天敬師範: 「合気道の型稽古、いわゆる『約束組手』は、定められた動きを反復することで、体捌きや技の理合といった基本を習得する上で重要です。しかし、それはあくまで『決められた状況下』での練度を高めるものです。一方、試合や実戦を想定した『自由組手』では、相手の予測不能な動きに対し、瞬時に判断し、臨機応変に対応する能力が求められます。空手や他の格闘技において、約束組手だけをどれほど繰り返しても、自由組手で戦えるようにはならないというのは、一般的な認識です。合気道も、この点において同様です。」
師範は、自身の指導経験に基づき、約束組手に偏った稽古の傾向について語る。
藤崎天敬師範: 「これまで、演武を中心に稽古されてきた有段者の方々と、30~40名ほど手合わせする機会がありましたが、その多くが、初めて経験するであろう『自由な攻防』に対して、有効な対応が難しい様子でした。約束された状況下では流麗な技を繰り出せる方でも、予測不能な攻撃に直面すると、動きが止まってしまう傾向が見られました。あるいは、特定の得意技に頼り、状況に応じた変化が見られないこともありました。もちろん、中には体格的な利点や他の武道経験から、ある程度対応できる方も数名いましたが、それでも『組手』や『試合』として攻防が成立するレベルには達していないのが実情でした。約束組手は、武道の基礎を築く重要な土台です。しかし、それを実戦で活きる力へと繋げるためには、自由組手を通じて、多様な状況への対応力、すなわち『応用力』を養う稽古が不可欠であると考えます。」
第四幕:現代演武への視点と期待 – 多様性の探求(演武ファンの問いを受けて)
ここでインタビュアーは、近年の合気道演武について、一人のファンの視点から、「画一的な傾向が見られ、かつてのような指導者それぞれの個性や哲学が反映された多様な表現が少なくなっているのではないか。もっと個々の合気道観を表現する演武があっても良いのではないか」という意見を述べた。
この問いに対し、師範は同意を示し、自身の見解を述べた。
藤崎天敬師範: 「非常に興味深いご指摘だと思います。私も、演武はもっと自由で、多様な表現が許される場であるべきだと考えています。かつては、おっしゃるように、指導者それぞれの持ち味――卓越したキレ、流れるような柔らかさ、気を意識した表現、高い芸術性、重厚さ、鋭い当て身、華麗な捌き――といった、個々の合気道観が色濃く反映された、個性豊かな演武が多く見られました。それは観る者にとって刺激となり、合気道の多面的な魅力を知る機会となっていたでしょう。」
藤崎天敬師範: 「現代の演武に画一的な傾向が見られるとすれば、それは基本から逸脱することへのためらいや、独創性に対する見えない抑制が働き、結果として類型的な型の反復に留まっているという可能性も考えられます。もちろん、武道において基本は重要な基礎です。しかし、その基礎の上に、自身の稽古を通じて得た独自の理解や哲学を表現することも、演武が持つもう一つの重要な価値だと考えます。インタビュアーの方がおっしゃるように、『気と捌き』に特化した演武、『当て身の有効性』を追求した演武、あるいは芸術性を高めた演武など、もっと自由な発想があって良いはずです。」
藤崎天敬師範: 「演武は、技術レベルの提示であると同時に、演者自身の合気道に対する探求心や哲学を表現する側面もあると考えます。若手の指導者の方々には、確立された基本をしっかりと踏まえつつも、ご自身の信じる合気道観を自信を持って演武に投影し、新たな可能性を切り拓いていってほしいと期待しています。それが、合気道演武の世界を活性化させ、多様な魅力を再び輝かせることに繋がるのではないでしょうか。」
第五幕:演武の魅力、誤解の危険性、そして未来への展望
実戦という視点を持つ藤崎師範の言葉は、演武のあり方について深く考えさせる。しかし同時に、現代の合気道演武が抱える課題を共有し、その未来に期待を寄せる言葉でもある。
藤崎天敬師範: 「演武と実戦の違いを理解しているつもりですが、ごく稀に、真に卓越した師範の演武に触れると、『この技は、実戦でも通用するのではないか』と感じ入ることがあります。それほどまでに、『本物』の域に達した演武には、強い訴求力、人を惹きつける力があるのです。だからこそ、実戦の厳しさを知らない人が、その華麗さに影響を受け、演武の巧みさを実力と誤認してしまう可能性がある。しかし、それは誤解を生む危険性も孕んでいます。」
藤崎天敬師範: 「長年、真摯に合気道の道を歩んでこられた一流の師範方の演武には、単なる技術の巧拙を超えた、武道の深みや精神性、そしてその方の人間性が凝縮されているように感じられます。だからこそ、観る者は感銘を受けるのでしょう。しかし、その魅力に目を奪われるだけでなく、演武の持つ側面、そして約束組手(基礎)と自由組手(応用)のそれぞれの意義と限界を正しく認識することが重要です。そして何より、演武が持つ『表現』としての可能性を信じ、指導者一人ひとりが自身の合気道を恐れることなく体現していくこと。それが、現代における合気道、そして演武がさらに発展していくための鍵となるでしょう。」
実戦合気道を追求する藤崎天敬師範の提言は、合気道における「演武」という文化、そして稽古体系のあり方そのものに、重要な問いを投げかけている。美しさの奥にある実用性との関係。基礎としての約束組手と、応用力を養う自由組手の連関。そして、武道表現としての演武の可能性。これらの問いは、すべての合気道修行者、そして合気道を愛する人々にとって、改めて深く考えるべきテーマと言えるだろう。