「合気道って、あれで戦えるの?」
そんな声を、これまで何度耳にしてきただろう。
武道好きなら誰しも一度は疑問に思ったことがあるのではないか。打撃がない、組手がない、相手がくるりと勝手に回って倒れてくれる。そんな映像を見れば、確かにそう見えるのも無理はない。
実際、現代の多くの合気道流派では、試合は行われず、当身(打撃)もほとんど稽古されていない。「型」だけが繰り返される世界に、「実戦性」という言葉がなかなか重なりづらいのも事実だ。
だが、武道というのは、見た目だけでは判断できないものがある。
合気道という武道が本来持っていた「激しさ」や「鋭さ」、そして「強さ」は、まだ消えていない。ただ、見えにくくなっているだけだ。
その火を、現代に再び灯そうとしているのが、**実戦派合気道団体――覇天会(はてんかい)**である。
合気道覇天会が掲げるキャッチコピーは、ひときわ印象的だ。
「優雅なる技の織り成す芸術――覇天会合気道」
優雅? 芸術? 柔らかい言葉だ。だが、道場で繰り広げられている稽古風景は、それとは裏腹に骨太で硬質。打撃用ミットを鋭く貫く手刀、連打に対して無駄なく対応する捌き、関節技へと流れるように移行する連絡技――そのどれもが、ひたすらに「実戦」を志向している。
覇天会の創設者であり宗家を務める藤崎天敬(ふじさきてんけい)師範は、合気道S.A.において三度リアル合気道選手権大会を制した猛者だ。その試合は、合気道界では稀有なフルコンタクト形式で、他流試合も許容されている。藤崎師範はそこで空手や柔道、拳法の有段者を退け、勝ち上がった。すなわち、「演武」ではなく、「実際に殴り合う場」でその技術が通用していたということになる。
藤崎師範の提唱する「フルコンタクト合気道」は、空手の模倣ではない。
あくまでも合気道技の中に打撃を取り入れ、「合気道で戦う」ための仕組みなのである。
合気道覇天会が実践しているのは、単なる“強い合気道”ではない。
打撃と合気道技術を分けず、ひとつの流れとして組み上げているところに特徴がある。
たとえば、相手のワンツー攻撃に対して体を捌いて崩し、そのまま肘締めを狙う。しかし相手がそれを耐えれば、小手返しへ移行して制圧。あるいは、スイングパンチに対しては受け流して即座に小手返しで崩す。こうした一連の動きが、“瞬間の流転”として自然に繋がっている。
この柔軟な連携技術体系を、覇天会では**「流転する立ち関節」**と呼んでいる。
文字通り、技が流れ、変化し、滞らず、次の動作へとつながる。その技の芯にあるのが、「相手を倒す」ではなく「掌握する」という発想だ。
覇天会が目指す究極の技術的・精神的到達点。それが「掌握の境地」だ。
これは、単に相手を制圧するという話ではない。
相手を傷つけずに、
最小限の動きで、
確実に主導権を握る。
……そんな“武の完成形”を追求しているのが、覇天会の在り方である。
もちろん、組手では顔面への手刀打ちも許される。タックルも、岩石落としも、後ろ首締めもある。しかしそれらは、「やられる前にやれ」という発想ではなく、「危機を制する技術」として位置付けられている。
たとえるなら、刃を抜かずに相手を止める剣豪の技量。
相手の力を受け、流し、崩し、止める。打つ手の一つひとつに、知性と配慮がにじむ。
こうした実戦的な技術体系は、単なる理論ではない。
覇天会では、年に2回「フルコンタクト合気道選手権大会」が開催されているほか、全国規模での大会出場や他武道との合同稽古も積極的に行っている。空手の世界チャンピオン、総合格闘技ファイター、日本一経験者とも交流があり、言葉だけでない“武の対話”がなされているのだ。
だが、その実力を誇るでも、競技で他を凌ぐことを目的とするでもない。
覇天会の精神的基盤にあるのは、合気道の理念「和合」――すなわち、争いを避け、調和へと導く力である。技術的に相手を完全に掌握できるからこそ、戦わずして済ませることができる。それはまさに、強さの証明であると同時に、優しさの証明でもある。
合気道に、実戦性を。
それは古いようでいて、むしろ新しい。
武道が“型”として保存されることも大切だが、時代とともに技術が生き直すこともまた必要だ。
覇天会は「技術」「芸術」「実戦」「倫理」、そのすべてのバランスを取ろうとしている。優雅で、しかし鋭く、時に激しくも、最後には和やかに終わる。
その稽古風景には、単なる強さだけではない、人を育てる気配が漂っている。
答えは、覇天会の道場に立てばすぐにわかる。
静かに構えるその姿の奥に、確かな“力”がある。
打たれ、崩され、制され、それでも傷つかずに終わる。
――合気道は、ただ強いだけではない。
強くあろうとしながら、優しくあるための武道なのだ。
↑合気道覇天会 藤崎師範VS中国武術酔拳(総合格闘技巌流島ファイター)今野先生