実戦合気道覇天会・藤崎天敬、空手との対峙と技術革新

横浜を拠点に、実戦合気道覇天会を主宰する藤崎天敬師範。彼は伝統的な合気道の技術に現代的な実戦性を融合させ、独自の武道を追求している。宗家、筆頭師範、範士八段という肩書きは、彼が長年にわたり武道の探求に専心してきたことを示している。

藤崎師範が独立前に所属していた流派では、限定的な打撃が認められる合気道選手権大会が開催されていた。彼はこの大会で優勝3回、準優勝1回、優秀賞1回という成績を残している。こうした実戦形式での経験が、彼の合気道の技術的な基盤の一つとなっている。180cm、92kgという体格に加え、武道・格闘技合わせて十八段という経験を持つ。空手道剛柔会の形世界王者であり、プロ総合格闘家でもある福山氏は、藤崎師範の技術や姿勢を評し、『進撃の合気』という異名を贈った。これは、既存の枠組みにとらわれず前進する彼の姿勢と、その技が持つ実用性を示唆するものだった。

しかし、現在の技術レベルに至るまでには、長い年月と試行錯誤があった。藤崎師範は自身の技術形成について次のように語る。 「合気道の技、その一点に絞るならば…三度目の(選手権大会)優勝をした二十一の頃には、すでに今の技の骨格は、おぼろげながらも見えていたように思います」 これは、「合気道は大器晩成」「実用レベルになるには数十年かかる」といった一般的な見方とは異なる視点である。 「技そのものの威力、強さだけであれば、私は二十一でそれなりの実力はありました。もちろん、その道は深く、極めるという終着点はありませんが」

特に二十歳から二十一歳にかけて、彼の技術は大きく進歩したとされる。当時、藤崎師範と乱取り稽古を行った柔道三段の指導者が、「一年間、柔道で投げられる回数より、先生との一回の稽古で投げられた回数の方が多い」と語ったという逸話は、若き日の藤崎師範の技術レベルの一端を示している。

基礎的な打撃の経験はあったものの、本格的にその技術や対応法を探求し始めたのは二十四歳の頃からだという。打撃技術、それを捌く方法、そして合気道の理合との融合。これらの要素が組み合わさり、彼が提唱する「フルコンタクト合気道」の原型が見え始めたのは、二十八歳頃であった。 「二十七歳頃までが、私の『修行時代』と呼べるかもしれませんね」

その言葉を象徴するように、二十六歳の時、彼は自身の打撃への対応力を試す目的で、極真空手の全国大会に出場した。フルコンタクト空手の試合経験はこれが初めてであった(当時、防具付き空手の茶帯は取得していたが、フルコンタクト空手の経験はなく、空手としては“無級”の立場で挑戦した)。

藤崎師範が高レベルの打撃を持つ相手と実戦形式で対峙したのは、これが最初ではない。実戦合気道を学び始めた初期(五級の頃)、防具付き空手の全国大会に出場し、空手三段の選手と対戦した経験がある。この時は、相手の顔面に有効打を二度当てたものの、ローキックで敗れている。しかし、空手の練習開始からわずか四ヶ月で茶帯と優秀新人賞を得た事実は、打撃に対する適応能力を示唆している。独立前の合気道選手権大会(打撃ありルール)でも、実戦空手二段の選手に勝利した経験があった。

だが、極真空手の現役無差別級チャンピオンという、過去に対戦したことのないレベルの相手と、フルコンタクト空手のルールで戦うにあたり、藤崎師範は特別な準備を行った。空手の実力者を相手に、壁際に追い詰められた状態での打撃を受けるなど、厳しい実地練習を重ねた。打撃への耐性を高め、防御技術を磨くと同時に、それらを合気道の体捌きでいかに受け流し、反撃に繋げるかの研究を行ったという。

大会初戦の相手は、奇しくもその団体の無差別級現役チャンピオンであり、後に空手ワールドカップでベスト8に進出した実力者だった。 組み合わせが決まった時の心境を、藤崎師範はこう振り返る。「『帰りは担架で病院送りだな』と。なにせこちらは、空手無級の合気道家として出場していましたから。

↑右 藤崎 極真の大会の様子

試合開始直後から、相手の的確で威力のある攻撃が続いた。しかし、藤崎師範は事前の練習で培った防御技術で対応し、本戦は引き分けとなった。 延長戦で、相手の中段回し蹴りに対し、無意識に足を手で掴んでしまうという反則を犯した。これは合気道の投げ技に繋げる動きが咄嗟に出たものだった。 「『しまった』という内心の焦りが、わずかに表情に出てしまったのかもしれません。相手のセコンドから『ミドル効いてるぞ!』という声が飛んできました。いや、効いていたわけではない。ただ、掴んでしまったことへの一瞬の動揺――それを勘違いされたのでしょう(苦笑)」

最終的に判定で敗れたものの、ポイントを奪われることはなく、試合後に大きな怪我もなかった。 「言うまでもなく、強かった。体重がのる突きや下段蹴りの衝撃は重かった。私が現在までに対峙した中でも、上位の五指に入るでしょう。敗れはしましたが、得難い経験でした」

この試合から得た経験は、二十八歳頃に体系化された「打撃の捌き組手」という稽古法に繋がった。これは、打撃を合気道の理合で捌き、制圧することを目的とした実戦的な練習方法である。 蹴り技を得意とするフルコンタクト空手の黒帯(全国大会出場経験者)を相手に、連続蹴りを捌く練習を繰り返した。絡み回転投げ、隅落とし、肘締め、小手返し、そして中段蹴りを掴んでからの入り身突きなど、多様な技で対応する訓練を行った。また、現役のプロボクサーにも協力を依頼し、パンチを捌く練習も行った。

「その二人との練習動画をYouTubeに上げたところ、コメント欄には『ヤラセではないか』『本気の打撃に合気道技など決まるはずがない』といった懐疑的な声が溢れました」と藤崎師範は語る。当時、「合気道は実戦では通用しない」という見方が根強かったためだ。 「そもそも、本気の打撃を捌けるようになるための、厳しい稽古です。そこに、『ヤラセ』が入り込む余地はありません。」

一方で、藤崎師範は当時の自身の打撃能力について、興味深い自己分析と戦略があったことを明かす。 「一つ、種明かしをしましょうか。実はフルコンタクト空手のルールなら、当時の私の打撃は、その空手家やボクサーより強かったんですよ(笑)」 「勘違いしていただきたくないのですが、私はあくまで合気道家。打撃そのものは凡庸です。空手家のような研ぎ澄まされた切れ味には及ばない。打撃単体で評価するなら、特筆すべき点はありません」

さらに、戦略的な側面についても説明する。 「実は私が、その二人、空手黒帯とプロボクサーよりフルコンルールの打撃が強いのには、あるトリックがあるんです(笑)。これは黙っていた方が格好良いのかもしれませんが…。彼のフルコンタクト空手の流派は、綺麗なキレのある空手を理念としていて、蹴り技は実に巧みです。ですが、理念的に、至近距離での泥臭い打ち合いはあまり得意としない。だから私は、あえて間合いを潰し、近い距離でのドロドロの乱打戦に引き込んだのです。相手の苦手を突いた、というわけです。合気道家が、空手家に打撃のキレで勝負して、勝てるはずがありませんから」 「プロボクサーとの組手についても同様です。フルコンルールでは顔面へのパンチが禁止されている。つまり、ボクサーの最大の武器が封じられているわけです。実は、そういった『トリック』があったのです」

このように、相手のルールや特性を分析し、自身の有利な状況を作り出す戦略的思考も、初期の異種格闘技経験を支える一因であった。しかし、彼の探求は単なる勝利や戦略に留まらず、より包括的で実戦的な合気道の体系化へと向かっていった。

修行時代の失敗談として、ルール確認不足で試合に臨み、実力を発揮できなかった経験も語っている。「ルールもろくに確認せずに、飛び込みで試合に出ては、あっけなく負けることもありました。一度などは、合気道の技で勝負しようと意気込んだものの、ボクシンググローブの着用が義務付けられており、全く相手を掴むことすらできなかった。そこで痛感したのは、『ルールを理解しなければ、勝負の土俵にすら立てない』ということでした(笑)。ルールを知り、勝つための戦略を練り、地道な稽古を積み重ねる。そうでなければ、勝利などありえない。当時の私は、バカでしたね」

合気道の技術を深めながら、打撃という異なる要素を取り込み、融合させる過程は、外部からの誤解や偏見に晒されることも少なくなかった。

彼の探求は続き、顔面への攻撃に対する防御と反撃技を体系化した「ユニファイド合気道」ルールの稽古に、三十代後半から本格的に取り組み始めた。 「心技体のバランス、その一点だけで言えば、三十歳頃が頂点だったのかもしれません。ただ…若い頃のような、勢いは失われたかもしれませんが、ユニファイド合気道の組手は今も続けています。顔面攻撃を含めた総合的な合気道の技術という意味では、現在も進化の途上にあると自負しています」

覇天会が提唱するユニファイド合気道ルールは、競技者としての活動期間を長く保つ可能性も秘めているという。打撃が分散されるため身体へのダメージ蓄積が比較的少ないこと、筋力よりも熟練した技術が重要となる合気道技や立ち関節技が主体であること、顔面への手刀打ちなどは年齢を重ねても有効性を保ちやすいことなどが理由として挙げられる。 「現に、当会には六十四歳(二段)の会員がいますが、先日、まだ級位とはいえ、二十七歳の若者を組手で圧倒していましたよ」と藤崎師範は語る。

藤崎天敬師範の歩みは、合気道という武道の可能性を拡張し続ける実践の記録である。若き日の実績、壮年期における技術の円熟、そして現在も続く探求。彼の『進撃』とも評された歩みは、これからも武道を志す人々に影響を与え続けるだろう。