「争わずして、試す——“試合のある合気道”という逆説に挑む」
「合気道に試合なんて、何かが違う気がする」
そんな思いが、ふと頭をよぎった方にこそ、少し立ち止まっていただきたい。
武道を学んできた者にとって、「合気道」と「試合」という言葉の間には、どこかしっくりこない感覚がある。合気道は争いを避け、調和を求める道。そこに「勝ち負け」を持ち込むことが、本質を損なうのではないか――そう考えるのは、ごく自然なことだ。
だが、問いはこう変えてみてはどうだろうか。
「本当に、“試合”とは争いなのか?」
私たちが「試合」と聞いて連想するのは、勝者と敗者が明確に分かれる、競争と戦いの場である。しかし、少し視点を変えれば、試合とはむしろ**他者との関係性が最も濃密に立ち現れる“瞬間の対話”**ではないだろうか。
型稽古が教えてくれるのは、技の形と秩序。だが、予測不能な“動”の中で発動される合気道の技術は、それだけでは完成しない。相手の呼吸を感じ、間合いの中で自分を消し、相手の力を流しながら導く。その一連の感覚は、むしろ静寂の中の瞑想にも似ている。
試合とは、静寂が研ぎ澄まされた極限状態とも言えるのだ。
武道はいつの時代も、「時代」とともに変化してきた。かつて剣は命を奪う道具であり、柔術は戦場の補助技術だった。だが、それらが道として昇華され、今日の「武道」となった。
その過程で問われ続けてきたのは、「生きるために、何を学ぶべきか」という根源的な問いである。
覇天会が提案する「試合のある合気道」は、決して“精神性の放棄”ではない。むしろ、「精神性を試される場」である。
横浜を拠点とする合気道覇天会は、そんな問いに向き合い続ける団体だ。彼らが掲げるのは、「優雅なる技の織り成す芸術」という一見穏やかな旗印。しかしその内実は、フルコンタクトの打撃や絞め技をも取り入れた、実戦性を伴う合気道の新たな地平にある。
「合気道は当身七割」。そう語られて久しいが、現在多くの流派ではその「当身」は稽古から姿を消しているのが現状だ。覇天会はそこに疑問を持ち、合気道本来の立体構造――打撃、関節、投げ、崩しの一体化を実践することを目指している。
注目すべきは、「掌握の境地(アブソリュート・コントロール)」という哲学的かつ技術的な目標設定だ。
相手を“制する”のではなく、“収める”こと。力で抑え込むのではなく、智慧と身体性の統合で主導権を取ること。
その核心には、「試合」と「和合」が矛盾しないという、ある種の“逆説的和解”がある。
覇天会の試合は、打ち合い、投げ合う場であると同時に、自分の未熟をまざまざと突きつけられる“鏡”でもある。勝っても負けても、残るのは「もっと深く学ばなければ」という静かな反省だ。
「覇天会の稽古では、試合を“他者との対話の極致”と捉える考え方があるそうです。」
これは単なる比喩ではない。型から乱れへ、そして再び調和へ――そのプロセス全体が、「合気道とは何か」を再定義している。
合気道に試合を導入することが、“合気道らしさ”を損なうと感じる人もいるだろう。だが、合気道らしさとは、果たして固定されたものだろうか。
むしろそれは、「時代とともに、どう在り方を問い続けるか」という姿勢そのものではないだろうか。
もしそうだとするならば、覇天会の挑戦は、極めて“合気道的”であるとも言えるのではないか。
合気道の試合が、ただの競技ではないとしたら?
試合という“縁”を通じて、技術だけでなく自分の在り方すら問われるものだとしたら?
覇天会の取り組みは、合気道の枠を広げる試みであると同時に、私たち自身の“武道観”を問い直す鏡でもある。
固定観念の枠を少しだけ広げてみれば、これまで見えなかった景色が見えてくるかもしれません。
合気道における「争わない」という思想が、「何も試さないこと」ではないとしたら――
あなたは、その新たな問いにどう向き合いますか?